【 〈頬撫で〉は、山梨県南都留郡道志村の暗い谷沿いの小路に出現した。そこを通ると頬をなでられるというわけである。これは、夜露に濡れた枯れ尾花が頬をなでるのだと、つまらないことをいう人もあるが、実際になでられた人は、
「暗闇から蒼白い手が出て、ぬっぺりと頬をなでられた。」
と、口数少なく語るという。
 夜、野原を歩いていて、すすきなどが顔にふれるのはあまりいい気持ちのものではない。それも事前に、〈頬撫で〉という妖怪がいるから気をつけろといわれたりすると、よけいそうした自然の草の穂などが顔をなでても、〈頬撫で〉になでられたということになるのであろう。
 いずれも、草の穂は高さが低いから、子供でないと頬をなでられないから、おそらく〈頬撫で〉は子供の体験するお化けなのかもしれない。
 よく暗い穴に入って手さぐりしているときに、草みたいなものが顔にふれると大いにおどろくことがある。それと同じように、暗いところで不安を感じているときに、何かがふれると10倍にも鋭敏に感じる。すなわち、目よりも触覚で見るお化けなのかもしれない。
 ある妖怪研究家(文化人類学者)が言っている。
 「見るということの4割の中に触覚が参加しており、純粋に見るというだけのことで見ているわけではない。見ることの中には温度なども大いに関係しており、まわりが特別の状態になった場合は、特別のものを見るわけだ。」
 なるほどと考えさせられた。この〈頬撫で〉もそういう類のものであろう。】(『日本妖怪大全』)

 〈頬撫で〉は今野円輔編著『日本怪談集_妖怪篇』が引用した『道志七里』に載っている。このような怪異は、少ないながらも各地に見ることができる。
 明和4年(1767)に刊行された『新説百物語』には、〈縄簾(なわのれん)〉という同じような妖怪の話が載っている。
 京都のある所では、昔から不思議なことがあった。雨がそぼ降る夜にそこを通ると、何やら顔にあたるものがあるという。それは〈縄のれん〉のようなもので、顔にまとわりついて前に進みにくい。無理に通りすぎると、後から傘を持ってひきとめる。何とかして通りぬけると、後は何の障害もない。昔から現在まで何人もそんな目にあったという噂である。

 三崎一夫著『陸前の伝説』には、宮城県伊具郡丸森町筆甫(ひっぽ)の〈 びっくり坂〉という話が伝わっている。
 裏ノ沢から鷲ノ平へ行く途中に、びっくり坂とよばれる坂がある。昔、夜になってこの坂を通ると、必ず冷たい手で顔を撫でられたという。
 これと同じものが『自然と文化』の倉石忠彦著「信州の妖怪」にも記されており、〈顔撫ぜ〉とよばれている。この後者2つが、〈頬撫で〉にいちばん近いものであろう。
 よく胆試しなどで、釣り竿にこんにゃくをつけたものを顔につけたりするが、やられたほうは、闇夜にペッタリと冷たい手で撫でられたような感じがする。〈頬撫で〉はきっとこんな感じなのであろう。

[文献データ]
水木しげるの続妖怪事典_p.72
X文庫_水木しげるの妖怪図鑑_下_p.128
日本妖怪大全_p.415

幻想世界の住人たち_4_日本編
綜合日本民俗語彙
綜合日本民俗語彙/道志七里
日本怪談集_妖怪篇/道志七里
妖怪(日本民俗文化資料集成_8)千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」/綜合日本民俗語彙

(びっくり坂)日本伝説名彙/伊具郡史
(びっくり坂)陸前の伝説/伊具郡史
(顔撫ぜ)幻想世界の住人たち_4_日本編
(顔撫ぜ)妖怪(日本民俗文化資料集成_8)千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」/季刊『自然と文化』1984年秋季号_特集妖怪「信州の妖怪」
(縄簾)続百物語怪談集成/新説百物語