【 世阿弥作とされる謡曲『鵺(ぬえ)』には、源頼政に退治された〈鵺の亡霊〉が出現する。
 ある行脚(あんぎゃ)の僧が、京の都に上ろうと思って紀州路を通り、和泉(大阪南部)の篠田の森を過ぎて蘆の里にたどり着くと、ちょうど日暮れになった。今宵はここに宿を借りて身体を休めようと思っていると、暗い海辺のほうから怪しい人の声が響いてきた。それはどうやら海士人(あまびと)のようだが、なぜか姿が見えない。
 僧は不審に思い、暗闇の声に向かい、いかなる素性の者か名乗るよう促した。すると、声はおちついて話しはじめた。
 「何を隠そう、われは近衛院の御宇(ぎょう)に、源三位頼政が矢先にかかって一命を亡びたる〈鵺〉と申す亡霊であります。今よりしてそのときのありさまを詳しく物語ってお聞かせ申すほどに、跡を取ってくだされませ。」と、頼んで語るのは、先の有名な頼政による『鵺退治』の一幕で、語り終わって僧の耳に伝ってきたのは、悲しい〈鵺〉の声であった。そこで僧は、この〈鵺〉の妄念を晴らすべく、一夜中途切れることなく、一心に経を誦じた。
 しばらくすると「涅槃に引かれて真如の月の、夜潮に浮かびて是まで参りました。あら有難や。」と〈鵺〉の声がして、姿を現したのは面は猿、手足は虎の見るからに恐ろしい怪物の姿であった。そして〈鵺〉は、生前、外道として御殿に現れたことや、頼政によって一命を失い、こうしてさまよい出たことなどを僧に向かって懺悔すると、もう思い残しはしないというようにくるりと背を向けて歩き出し、暗い海の底へ沈んでいった。
 現在、大阪府都島区都島町3丁目の商店街の一角に、〈鵺〉の死体を埋葬したという《鵺塚》がある。京より頼政によって空舟(うつぼぶね)に乗せられ、淀川を流れて、この近くに漂着したからである。】(『続日本妖怪大全』)

 源三位頼政による『鵺退治』の話は『平家物語』『源平盛衰記』などに詳しく、当時から有名な話であったらしい。それが世阿弥の謡曲により、さらに知られるところとなった。謡曲では歌や掛け詞を交えながら、〈鵺〉の未練や悲哀を見事に表現している(〈ヌエ〉の項参照)。
 〈鵺〉の亡骸を入れて淀川に流したという《空舟》は丸太をくりぬいて造られた船で、魂を封じ込めることができると伝えられる。しかし、この空舟が流れ着いた蘆の郷では病気が蔓延し、〈鵺〉の祟りと恐れられた。そこで築かれたのが《鵺塚》であるという。

 こうした〈鵺〉の怨霊が、源三位頼政自身に祟ったという伝承が『常陸志』にあり、『大語園_7』に収められている。
 この伝承によると、〈鵺〉の怨霊は良馬と化し、頼政の家に飼われたという。頼政も息子の仲綱もこの馬をかわいがり、《木下(このした)》という名前まで付けられた。
 ところがこの馬に、平家の大将である宗盛が目をつけ、盛んに仲綱に所望した。仲綱は何度も断り、このことをきっかけに源氏の中で唯一、平氏政権内部にとどまっていた頼政父子と平家との関係が悪化し、やがて頼政は挙兵し宇治平等院での討ち死にに至る。《木下》は宿怨を晴らしたことを確認した後に倒れ、土地の人はこの馬を埋めて神として祀った。木馬明神とよばれ、崇められたという。
 もっとも、頼政挙兵の真相に関してはさまざまな説があり、あえて平氏に組することで獅子身中の虫となり、源氏挙兵の火付け役となったともいわれている。いずれにせよ、挙兵するまでは源氏の裏切り者としてのそしりを免れなかった。
 英雄の心中、どのようなものであったのだろうか。

[文献データ]
続日本妖怪大全_p.218

大語園_7/謠曲

鵺謡曲集